先週行われた日本女子プロゴルフ協会(JLPGA)の最終プロテストでは、新たに26人のルーキーが誕生した。うれし泣き、悔し泣き、さまざまな思いがこもった涙が入り混じる会場で印象に残った、合格までのストーリーを紹介する。
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これまでに9度挑戦してきたプロテスト。当然ながら、合格をつかむまでの道のりは平たんではなかった。それはゴルフ場で研修生をしながら、「やめようかなと思った時期もありました」と、折れそうな心を奮い立たせながらの日々。そして今年、上堂薗伽純(かみどうぞの・かすみ)は最年長合格となる28歳でようやくスタートラインに立った。
「(入会式で)認定証をいただいだときには実感が湧きましたね。いろいろ思い出しちゃって…ちょっとウルっときました」
その時、頭をよぎっていたのは、コロナ禍で2度プロテストが行われた21年のできごとだ。1回目(20年度)のテストでは第1次予選で56位に終わり、2次への進出を逃した。何よりもショックだったのが、その会場、三重県にあるココパリゾートクラブ白山ヴィレッジGCが、高校卒業から研修生として所属していた場所だったこと。「自分のところで落ちちゃったんです。この時は本当にやめようかなって。ここで通れなかったらどうすればいいんだろう」。初受験となった16年からそこまで、1次予選はすべて通過してきた。それに加えてホームコースでの失敗とあれば、さすがに堪える。『腐っちゃダメ』。そんな周囲の声だけが支えだった。
だが、そんな上堂薗に再び活力を吹き込んだのが、今回の最終テスト会場になった大洗GCだった。初めて最終プロテストに進んだのが2年前の22年だったのだが、それが今年と同じ大洗での開催。「この年に最終に行けたことで、“まだやれる”って思えました」。そこでは合格には至らなかったが、今年、そこが悲願をかなえる場所になった。「思い入れのあるコースでしかないですね」。そう言うと、表情も緩む。
バスケットボール、ダンスに打ち込んできたスポーツ少女が、本格的にゴルフを始めたのは14歳の頃。決して早くはない。それまでも祖父と練習場に行くことはあったが、大会とは無縁の生活。きっかけは、バレーボールに打ち込んでいた中学時代に「どうしてもゴルフをやって欲しかったみたい」という父に連れていかれた女子ツアーの「ゴルフ5レディス」だった。出身地の愛知県からほど近い、岐阜県のゴルフ5カントリーみずなみコースで行われた大会だ。
「家がお金持ちというわけではなく、洋服も安いものを着ていたんですけど、その時におしゃれなウェアを着て、好きなゴルフをしているプロがかっこよく見えて、いいなと思ったんです。そして『私もプロになっておしゃれなウェアを着たいな』という気持ちがこみ上げてきて。今もその思いは変わらず、片隅にありますね」
キラキラしたロープの内側の世界。これがプロゴルファーを目指す原風景になった。地元の栄徳高ではゴルフ部に入り、卒業後は親元を離れ白山ヴィレッジGCの研修生として寮生活。2年前からは、自分で家を借り、現在の日本ラインゴルフ倶楽部(岐阜)に所属している。
そのため遠征費なども潤沢に出るわけではない。「ゴルフというとお金持ちがやるというイメージがあって、何度もテストを受けていると“何が苦労人だ”というコメントなんかを見ることもあるんですけど、研修生という道を選んで、自分で資金を捻出しながらプロを目指す子は私以外にもたくさんいます。時給で働いていたこともありましたよ(笑)」。まさに“自力”でつかんだ合格は、「毎年ひとりずつくらいは同年代の方が合格していたので、私も続くぞ」ということもモチベーションになっていた。
安心したのもつかの間。ここからはQTに向け準備を進めていく。まだ単年登録でツアー出場が可能だった18年以前にもQTは受けていたが、当時については「言い方は悪いけど“受けられるから受ける”という感覚でした。選手として実績もなかったし、プロテストの流れで受けていただけという感じで」と振り返る。19年からはプロテストに合格しないとQTへの参加もできなくなった。「その価値が身に染みました」。今度は参加するだけではなく、「頑張って上位に入って、レギュラーツアーにいきたい」という明確な意思を持ってプレーする。
「白山ビレッジで日本女子オープンがあった時(19年)、私はスタッフとして仕事をしていたんですけど、私たちがあいさつしても、すごく丁寧に返してくれて、ファンのみなさんにサインとかもずっとしている姿を見ました。プロとしてもかっこいいけど、人間性も見習いたい」というツアー通算13勝の成田美寿々が、目指すべきプロ像だ。選んだ道はひとつ実りの時期を迎えた。ここからかっこよくウェアを着こなし、堂々とロープの中を歩く姿を見せてくれるだろう。(文・間宮輝憲)