国内女子ツアー「ヤマハレディース葛城」の週末、会場の葛城GCに国内男子ツアー通算18勝の藤田寛之の姿があった。コース所属であり、ヤマハゴルフの顔でもある藤田は、自身が校長を務める『ヤマハジュニアゴルフスクール』の生徒イベントや、選手とティイングエリアに上がるキッズエスコートの引率として来場していた。
ヤマハ株式会社は2月、今年6月でゴルフ用品事業の終了を発表した。大会は来年以降も継続する方向と伝えられた。33年にわたりヤマハゴルフと契約してきた藤田にとって、事業撤退は寝耳に水だった。昨年末にあいさつに出向いたときに『来年は分からない』とは聞かされていたが、「なんとかなるだろうと思っていた」という。
仕事でベトナムに滞在しているとき、その知らせが入った。「かなりショックでした。これまで携わってくださった方々の顔がまず浮かびました。ユーザーの方もすごく残念だろうなと思いました」と、自身のことよりも周囲のことが先に思い浮かんだ。
藤田とヤマハの出会いは1992年までさかのぼる。専修大学4年時に、大学の先輩であるプロゴルファーの寺下郁夫が支配人を務めていた葛城GCに、研修生として入社した。アルバイトの名札をつけてゴルフ場業務を行う傍ら、「その時が一番練習しました」と土の上からボールを打ち込んだ。
同年10月のプロテストに合格して所属プロとなり、同時に葛城GCを運営するヤマハとクラブ契約を結んだ。「研修生の頃は当時流行していた『J's』のグースのアイアンを使っていたのですが、ヤマハはストレートネック全盛期で…。担当の方にグースネックがいいと言うと『バカ野郎』って怒られましたね」と笑う。
当時、ツアーでヤマハ使用プロはほとんどいない。「プロ用のキャディバッグもなかったんです。ピアノの鍵盤やバイオリンの弦がデザインされたモノを使っていました」と、ヤマハらしいキャディバッグで試合に出ていたことも懐かしい思い出だ。
ツアーで実績を積むと、『自分が使いたいクラブを作ってこい』と言われた。プロ担当と一緒に、OEMでアイアンを製造する遠藤製作所に足を運んだ。藤田が使いたいクラブが完成し、それが後に『インプレス』のフラッグシップとなった。2003年の登場後に一世を風靡し、「自分も優勝して、インプレスも人気が出た。ヤマハの黄金時代ですよね」と、秘話を教えてくれた。
ともに歩んだ33年。「半分はヤマハの人間、半分は契約プロ」という思いで、クラブ開発にも携わってきた。10年頃からは外国ブランドの台頭が顕著となり、独自路線を貫くなかでも『変化がない』と言われるようになった。外国ブランドの良さを追いかけたが、そのポテンシャルには追いつかない。契約プロも旧モデルを使う時代が10年ほど続いた。
「この業界で勝ち残るためにはどうしたらいいのか。ずっと考えていました」。プレイヤーとしてだけでなく、ヤマハゴルフの未来にも思いを巡らせてきた日々にも区切りが訪れる。「感謝しかない」。33年を支えてくれたヤマハへ、心からそう話した。
藤田が校長を務める『ヤマハジュニアゴルフスクール』も、ゴルフ用品事業とともに6月で終了する。現在は静岡県浜松市3カ所と三島市1カ所を拠点に活動している。これを7月以降、藤田が引き継ぐことが決まった。
新たに立ち上げる『静岡浜松ジュニア育成プロジェクト(仮称)』では、地域企業や行政のサポートを受けながら運営する予定で、いまはその準備に追われている。スクールはもともと、技術の追求だけでなく、「感謝の気持ち」「仲間を尊重する」「競い合う楽しさ」を通じて「心を育てる」ことを理念としてきた。
“ヤマハイズム”を受け継ぎ、ジュニア育成を続ける。今後もゴルフの裾野を広げながら、「ゴルフを通じて地域で子どもたちを育てる。そして地域の企業で活躍してほしい」と願いを込める。
これまで同スクールから男子プロは誕生しているが、女子プロはまだいない。将来、この大会の舞台に教え子が立つ日が来れば、きっと藤田の応援にも力が入るはずだ。(文・小高拓)
