これまでテレビ越しに見てきた憧れの舞台に、人生で初めて足を踏み入れた。実際に目の前に広がっていたのは、言葉では言い尽くせないほど美しい景色と、まるで別世界に迷い込んだかのような特別な空気。オーガスタ・ナショナルGCを初取材した記者が、その魅力をお届けする。
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『NO CELL PHONES BEYOND THIS POINT』(この先、携帯電話使用禁止)。メディア専用施設であるプレスビルディングからコースへとつながる出入口のドア前には、その言葉が掲げられている。
マスターズでは、会場内への携帯電話や電子機器の持ち込みが厳しく禁止されており、違反すれば即刻退場となる。これは、世界最高峰の“静寂と品格”を守るためのルールだ。
普段の取材では、会社との連絡やリーダーボードの確認、選手情報の収集など、スマートフォンは必須アイテムだ。だが今回はそれが一切使えない。取材メモもボイスレコーダーを使用することになり、慣れない操作に戸惑い、他社記者に助けてもらう場面もあった。
会場内には手動で更新される大型リーダーボードが設置されているが、表示されるのは上位選手など一部のみ。出場している選手全員の状況をリアルタイムで把握することはできない。
今回は日本勢から松山英樹と片岡尚之の2人が出場しており、予選ラウンドのスタート時間は約2時間の差があった。限られた時間の中で効率よく取材するため、片岡の前半9ホール、松山の前半6ホールを追い、途中16番グリーンで再び片岡を確認するという動線になった。
その中で気になったのは、見ていない選手のスコアが分からないこと。ポケットを何度も確認してしまうほど、情報の“空白”は想像以上に大きかった。
それでも、メリットも感じた。まず1つ目は、目の前のプレーに完全に集中できることだ。これまでのように他選手のスコアを気にする必要がなく、ショットの一打、一打、選手の表情や仕草に対する観察力が自然と深まっていく。
もう一つは、いわゆる“デジタルデトックス”だ。日常では常にスマートフォンを通じて情報に触れているが、この空間ではそれが完全に遮断される。最初は戸惑いもあったが、次第に頭が軽くなるような感覚を覚え、自然と目の前のゴルフに没入していった。約8時間の滞在中、外界の情報から切り離された時間は、むしろ心地よさすら感じるものだった。
コースを出る前には、思わずポケットに携帯電話がないか何度も確認してしまうほど、『携帯電話があって当たり前』という環境に慣れていた自分にも気づかされた。
プレスビルディングを出るときは、施設のドアの前でポケットやバッグを確認して何度か携帯を入れたままにしてしまい、机に戻ることもあった。慣れは恐ろしいものだ…。
長年、マスターズに取材へきているベテラン記者によると、コース内にある公衆電話で会社に電話をして、選手の速報を伝えていたこともあったという。公衆電話ではパトロンたちが電話する姿が多く見られた。
そんな中、ある事態が起こった。今大会に招待客(オナラリー・インバイティ)として来場していた、1989年の「全英オープン」チャンピオンで65歳のマーク・カルカベッキア(米国)が練習日の水曜日にコース内で携帯電話を使用し、会場から退場を命じられた。
その後、米ゴルフウィーク誌の電話取材に対し本人は「オーガスタやマスターズについて否定的なことは言えないので、今すぐ電話を切ったほうがいい」とだけ述べ、会話を打ち切ったという。詳細は明らかになっていないが、メジャーチャンピオンであっても例外はないことを示す象徴的な出来事となった。
なお、携帯電話だけでなく、距離計測器やデジタルウォッチの使用も禁止されている。会場内では双眼鏡が販売され、観戦手段も徹底して“アナログ”に統一されている。この徹底した管理こそが、世界最高峰の舞台に独特の空気を生み出しているように感じられた。(文・高木彩音)
