<東建ホームメイトカップ 事前情報◇8日◇東建多度カントリークラブ・名古屋 (三重県)◇7090ヤード・パー71>
昨年12月に亡くなった尾崎将司氏の追悼セレモニーが行われ、親交の深かった池田勇太が弔辞を読んだ。尾崎氏との思い出や秘話を織り交ぜながら、憧れの“ジャンボさん”へ思いを届けた。
「ジャンボさんは私にとって憧れ、目標、尊敬、夢を与えてくれる人。師匠であり、スーパースター。そのすべてです」
幼少期から尾崎氏に憧れ、その背中を追い続けてきた。この言葉こそが、池田にとっての“ジャンボ像”そのものだ。
初めて尾崎氏とラウンドをともにしたのは、2003年「ブリヂストンオープン」最終日。当時17歳だった池田は、恐る恐る挨拶へ向かった。言葉は交わされなかったが、鋭い視線だけが送られたという。「今でもあの姿は忘れられない。最高にかっこよかった」。それが、尾崎氏との最初の記憶だった。
やがて時は流れ、09年「日本プロゴルフ選手権」で初優勝。報告のため尾崎氏のもとを訪れ、「33を使わせていただきたい」と願い出た。尾崎氏のラッキーナンバーでもあるその数字に、「『永久欠番だぞ』と、それでも許可をいただいて」と振り返る。以来、池田のボールには『33』が刻まれている。
顎偏位症(がくへんいしょう)の治療に苦しんでいた時期も、尾崎氏は変わらず気にかけてくれた。「どんな症状なのか、ゴルフにどんな影響が出るのか、細かいところまで話を聞いてくれました」
そんな池田に贈られた言葉がある。「ゴルフは心技体ではない。体技心なんだ」。まずは体を整え、技術はその先にある。その教えは今も胸に刻まれ、プレーを支える礎となっている。
最後は四字熟語で決意を示した。「死而後已(ししてのちやむ)」。死ぬまでやり遂げる、決して諦めないという覚悟。そして「今シーズン、必ず優勝して宍喰に報告に行きます」。尾崎氏は生まれ育った徳島県の宍喰町(現・海陽町)に眠る。40歳になった今季、2019年以来の復活優勝を遂げて墓前に立つ。
晴天のもと、尾崎さんを彷彿とさせる紫のニットに3タックのパンツ姿。敬意を込めた装いで、天国の尾崎氏へ雄姿を届けることを誓った。(文・齊藤啓介)
