尾崎将司さんが亡くなって半年が過ぎました。この間、編集部はずっとある後悔に苛まれてきました。自分たちはジャンボ尾崎の偉業や記録を報じてはきたけれど、果たして『本当のジャンボ尾崎』を伝えてこられたのだろうかということです。そして私たちは、この不世出のゴルファーがどういう人で、どういう人生を送ってきたのか。それを遺しておきたいと考えました。
はじめにお話を伺ったのは佐野木一志さん。エースキャディとしてジャンボ尾崎が最も輝いていたときを知っていて、 幼馴染でもあり、甲子園で優勝を遂げた盟友でもあります。そして、尾崎将司という人が、私たちと同じような青春時代を過ごし、でも天賦の才能と運気を持ち、故郷を愛していたことが、活き活きと語られています。
■部室で弁当を食べて3時間目の授業から出る
生まれたのが同じ宍喰町(現・海陽町)で、うちとジャンボの家はジャンボがドライバーで打ったら届くくらいの距離だった。思えばあの人とは、保育所、小・中・高校、そしてプロとキャディとして、ずっと一緒だったんだよなぁ。子供の頃ジャンボは『まっちゃん』と呼ばれてて、俺は一志の『かーちゃん』で、ジャンボもそう呼んでいた。
深い付き合いになったんは、宍喰中学と海南高校(現在は海部高校)の野球部に入ってからやね。ジャンボの家はキュウリをハウスで作ったり、米を作る農家で、生活は田舎の平均より上の家庭やったと思う。高校の頃、牛小屋だった2階をきれいに改装した離れの和室でジャンボは寝起きしていて、そこに俺もよく泊まった。
笑い話なんだけど、お袋さんは夜「早う寝えよ」とはいうけれど、朝「早う起きろ」は一度も言ったたことがないらしい。だからというわけじゃないけど、朝来ないときは3時間目の前に堂々と正門から入ってきて、そのまま野球部の部室に行って弁当食ってから、3時間目の授業から出るわけ。このジャンボのお袋さんの弁当は有名でね、元気が出るようにって、親父さんが捕ってきたマムシを粉にして卵焼きの中に入れたやつが入ってるんだよ。
中学、高校では野球部の先輩、後輩だから、一応「尾崎さん」と言っていたけど、誰もおらんかったら相変わらず「まっちゃん」と呼んでいた。高校のときは毎日、練習が終わって最終バスは2人きりだから、当時の流行歌とかを歌いよって帰ったなぁ。
高校の近くのバス停が食堂で、腹へっとるから一杯35円のかけうどんを食って帰るんやけど、金がないから“つけ”で食わせてもらうんだよね。黒板に正の字を『佐野木 正正正』とか書き足していくんだけど、おっちゃんが作ってる間に幾つかスッと消してな。
大人になって、「俺ら、あのうどん代払っとらんぞ」って言ったら、「いや佐野木、もう時効だからいいんだ」って言うとった。
■野球部時代は練習嫌い。それで甲子園優勝投手だった
中学のときは練習後に集まって校歌を歌うんだけど、プロになってゴルフの試合中に元気出さんといかんときに俺が歌うとジャンボも一緒に歌いよったよ。『荒波けぶる太平洋 学びの海の果て遠く希望をのせて船出する 宍喰中学 若人の 強き腕かいなを誰か知る』ってさ。
徳島の太平洋側の人間は大抵、お人好しって言われるけど、ジャンボも中学まではそんな感じで、茫洋というか、おおらかというか。後のプロゴルファーのジャンボ尾崎からすると考えられんけど、努力するタイプではないどころか練習嫌い。いかにサボるか、うまくやろうかいうタイプやった。
日曜日の練習のときに、宍喰がちょっとでも雨が降ってたらもうバスに乗っとらん。それで「何だ佐野木は来てるのに尾崎は来てないじゃないか」ってなるわけ。それが甲子園の優勝投手になるなんて信じられんでしょ。
その理由を考えたときに、まず器用やったね。字書いても上手いし、歌も絵も上手い。何より手先が器用やった。器用な理由を、ひいお爺ちゃんかなんかが大工やったらしいと自分で言いよったけどね。
二つ目は素材がいいこと。親父さん(實さん)は元陸軍中尉で航空隊の教官。俺らが中学校の頃、野球部が練習をしてたら農作業の帰りに親父さんが入ってきてノックしたり、校庭の鉄棒で大車輪してクルっと回って飛び降りて「大和魂!」って言ってスッと立つ。ジャンボはそれを恥ずかしがってたけど、でもその運動神経を受け継いでるのは間違いないな。
あとは運が強い。宍喰で祇園祭りってあるんだけど、ジャンボが小学校の4年くらいのときに、お稚児さんに選ばれて獅子舞の練習を消防小屋の2階でやっていたら、階段から逆さまに頭から落ちたんだけど何ともなかった。「そのときから俺は勉強の頭脳がなくなったから、もうスポーツで生きるしかないんだ」って言ってたけどさ(笑)、強運の持ち主ではあると皆が認めるところではあるね。
だいたい甲子園での優勝だって、海南高校の部員は14人よ。それで100人以上おる学校相手に初出場で初優勝、甲子園で勝率10割だからね。甲子園の優勝もあって、東京オリンピックの聖火リレーも2人が選ばれたけど、俺は徳島県の第一走者でギャラリーがまったくおらん海岸線を走るわけ。次のジャンボは街中でみんなからワァ~っと大声援を得て、そら最高やろ。そういう星の元に生まれとるということや。
■高校時代からチャンスと緊張に強かった
高校3年のときに甲子園に行ったときは4番でピッチャーの中心選手。まあ打者としては4打数2~3安打とマルチ安打するタイプじゃないんだけど、4打数1安打でもそれがホームランだったり、やっぱり見せ場のオイシイところで持って行くタイプだった。
得意球はシュートで、右バッターは真ん中からインコース低めに入ってきた球にみんな飛びついてゴロ打つから、1、2球で終わらせ連投も出来たし、球は速くて重いから打っても飛ばない。甲子園の5試合で取られたのが3点、凄い防御率だった。
尾道商との決勝戦は3対2とリードして9回の裏、2アウト満塁、カウント2-3までいったとき、俺は震えまくっとったよ。直前にファーストの俺が2つエラーしたことになってるけど、実は一つ目はサードの送球がワンバウンドで、それをファンブルして1、2塁。次の打者のバントをセカンドが捕って5メートルくらいの距離を速い球を投げてきて、それでお手玉みたいになって満塁になった。
記録は内野安打だったけど俺がミスしたいう気持ちでジャンボの所に行って「ごめん、ごめん」言うたら、空を見上げて「おい佐野木、飛行機が飛んでるぞ」っていうわけよ。こっちはヒザが震えてガクガクしてるのにだよ。
結局、最後はファーストに上がった凡フライを俺が捕ってゲームセット。ジャンボの所に駆け寄ると、「おい、佐野木、ボール」って手を出されたのでまた驚いた。
それで、最後にみんながベンチの前で記念に甲子園の土を集めているときに、ジャンボが「行くぞ」と言ってマウンドの土を取り行ったのも驚いた。やっぱりこの人は、ちょっと並みじゃないなって思ったなぁ。
その年の夏に、南四国大会の準決勝で高知高校に負けて甲子園の春夏連覇がなくなり、3年生のジャンボらは引退。それまでは野球が忙しくてジャンボは彼女はおらんかったけど、引退後はおったのは知っとった。
学校の近くの海岸の松原で時々デートしちょったらしいんだけど、そしたら中学生が「おい尾崎がデートしとる」ってワァ~ワァ~来て「デートどころじゃないぞ佐野木」って言っとったね。優勝してから町を歩くだけで「尾崎が来た」って言われるから、だんだんとちっこくなって俺は猫背になったって、これは本当の話と自分が言うとった。
■故郷の写真を見ながらジャンボが泣いた
60歳過ぎてから、毎年のように2人で宍喰に帰っていた。いつもジャンボの同級生の女性6人くらいを含めた10人ほどで大衆食堂で宴会やるんだけど、これが面白いのよ。
女性陣に「まっちゃん、あんたこんなんやったなぁ」って昔の話されて頭ポンポン撫でられて、ジャンボがそれを面白がってさ。たまに男も呼ぼうかって言ったら、「男はいらん」言うてね。それが、一度、俺が膀胱がんの手術するんで帰れんときがあって、それからジャンボから連絡がなかった。結局、自分の方が調子悪くなっとったんだけどね。
それで俺が独りで田舎へ帰ったときに、「佐野木さん、ジャンボさん帰らんねぇ、元気なんやろか」って皆に訊かれるから、「あの男がくたばるかよ、みんな知っとるやろ」って言って、「そうよね」って安心させたんだけど。そうやって病気のことはずっと隠しとったから、今回みんなびっくりして、「あんたは私らに嘘ついた」って言われたのが心苦しかった。
ジャンボは宍喰のみんなの間で本当に人気があった。『イチビリ』だもん。イチビリって『お調子もん』ということなんだけど。俺ら2人はほんと、子供の頃からずっと宍喰のイチビリだったよなぁ。
亡くなる10日前に、ジャンボが会いたがってると連絡を受け、(千葉に)会いに行ったんだけど、そのときに、これまで2人の間で滅多にセンチメンタルな話はしたことないけれど「ジャンボ、(宍喰に)帰りたい?」って言ったら、「うん」、と言うた。
それ聞いて慌てて嫁さんに電話して宍喰の写真を送らせたんだけどね。後で聞いたら、その写真を長いこと見よったらしい。やっぱり故郷っていいんだなぁ。あのジャンボが泣くんだよ……。
佐野木一志
さのぎ・かずし/1948年生まれ。徳島県海部郡宍喰町(現・海陽町)で1歳上のジャンボ尾崎とは小中高と同じ学校で共に野球に打ち込む。ジャンボのエースキャディとして国内で32勝を挙げ、海外メジャーも共に戦った。本名は一志だが、ジャンボのキャディを務めたときは計至。
