悲しい報せが舞い込んできたのは、23日の深夜だった。ジャンボ尾崎、いやプロゴルファー・尾崎将司さんが、息を引き取ったという報せは、にわかに信じられなかった。無念だとしか、いいようがない。
僕が、ゴルフ雑誌の記者・編集者としてデビューしたのと同じ時期に、ジャンボ尾崎が、プロテストに合格した(1970年)。いまでも覚えているのは、スポーツニッポンの樋口恭さんが、初めて「ジャンボ」とニックネームをつけた記事を読んだときだった。『すごい男が現れた。ジャンボだ、ジャンボだ。』という書き出しだったと思う。当時、ジャンボ・ジェット機が日本に投入され運用が始まり、どでかい、ワイルド、いかつい……という表現を、ジャンボと呼ぶようになった。
尾崎将司の出現は、その呼び名にピッタリということで、つけられた。「でも、最初は、ほかのマスコミの連中は、誰も認めず、ジャンボを使わなかったよ」と樋口さんは話してくれた。当時24歳の尾崎が、1971年の「日本プロ選手権」で初優勝してから、その絶対的な飛距離を見せつけられ「ジャンボ」という呼び名は定着していった。
1973年に賞金王。マスターズで東洋人選手初のベスト10入りとなる8位になるなどし、尾崎は、いちやくスーパースターとなった。「プロゴルファーにとって、試合で必要なものはなんだと思う? 派手さ、スリル、感動……そういう要素をギャラリーに与えてこそだと思うんだ」と言った。
でも、尾崎は、スランプに陥った。ちょうど1980年代に入ったころだった。
そのころの尾崎は、新聞に年間のOB数を、まるでホームランのように「尾崎、今季OB数●●発目」と毎試合書かれるようになっていた。「ジュン・クラシック」で尾崎は、マスコミを囲む食事会を開いた。ジュンのコース内の田舎家だった。
「今日は、無礼講。いろんな意見を聞こうじゃないか」とジャンボが言った。マスコミからは、ここぞとばかりに「ドライバーでOBが多いんだから、3番ウッドとかに持ち替えてゴルフをすればいい」という声もあった。遅れて参加した僕は、最後のほうで「三田村は、どう思っているんだ?」と聞かれ、素直にこう答えた。
「僕は、いまのジャンボさんに、まったく興味はありません。OBを年間何発打とうが、そんな記事は、書きたくないし、興味すらわかない」と答えた。
「お、お前、面白い意見だな」とジャンボが言い「じゃあ、お前の興味は何なんだ?」と言った。
「これからジャンボが、どうするか見てみたい。それなら書きたい」
「よーし、わかった。日本では、一度落ちた選手は、もう復活できないという風潮があるけど、そうでないことを俺が見せてやる。俺は、もっと大きなゴルフがしたいんだ」
以来、スランプと呼ばれる時代から、ずっと尾崎と付き合うようになった。週に3回程度、当時の自宅を訪れて、書斎でふたりきりの時間を過ごした。数年、続いた。
尾崎は「感性のゴルフから理性のゴルフをつくりあげる。3年捨てて、その後10年素晴らしいゴルフができればいいじゃないか。3年なんて、あっという間だよ」と言い、見れば、机の引き出しの中に、分厚いキャンパスノートにぎっしりと直筆で書かれた備忘録が、3冊も4冊にもなっていた。
そして言葉通り、復活した。それどころか、その後の優勝回数は、40歳を過ぎてから63勝する快挙だった。
1992年、ある雑誌の企画で長嶋茂雄さんと対談を行った。そのときのやりとりのメモが残っている。
尾崎:スランプは大きく飛躍するためには絶対必要条件ですね。いつまでも登り詰めることは不可能だし、ある程度は立ち止まる。しかしゴルフの場合は、メンタルな要素が強いから、そこでいろいろなことを考えすぎたりすると、そのまま立ち直れなくなってしまうことがある。僕の場合、4年という長い時間がかかったけど、改めて自分を考え直したり、新しい自分をつくり出す情熱のようなものを決して失うことはなかったですね。
長嶋:もう一度自分でやり直してみようという気持ちになった原動力は何ですか。
尾崎:世界という舞台がある。そこで力を発揮できないと、自分のなかで「もっと、もっと」という気持ちが強くなる。だから日本の選手はそのためにももっと海外に出ていろんなビッグタイトルのトーナメントにチャレンジしなければいけない。チャレンジをして初めて、自分の本来の姿がわかるようになる。
そして僕が、鳥肌が立った会話がある。その前年(1991年)絶頂期の尾崎の自宅に、ある夜、訪ねたときのことだった。まだ練習していると聞いて、庭を探し回っていたら、真っ暗なベンチに独り、クラブを抱えるように座っていた。
「どうしたんですか?」と聞くと、尾崎は呟くように言った。
「練習すればするほど、課題が増えるんだ」
その孤独な、先の見えない探究心と苦労は、他人には想像できないものがあるのだろうと思い、その話を長嶋さんに振ったときだ。
「長嶋さん。ジャンボさんは、クラブを抱えていないと眠れないというんですよ?」
「その気持ち、よーくわかります。私も同じような時期がありましたから。ひとつの道をきわめて行こうとすると、人間は孤独になる。そうなってしまうんですよ」
「年齢を重ねてきて、さらにもっと上へ、もっと技術を高めようとすると、処理しなければいけないこともたくさん出てくる。若いときは、若さの勢いだけでよかったのに、でも、努力は、そのときはきついけれど、それを達成できたときは、笑って話せる。だから苦労でも何でもない」
数多くあるジャンボのエピソード。それは、あの派手さの陰に隠された、繊細で大胆なプロフェッショナルの生き様が詰まっていると思う。残念というよりも、無念としか言えない。安らかに、尾崎将司さん。
■三田村昌鳳(みたむら・しょうほう)/ゴルフジャーナリスト、日蓮宗の僧侶(逗子・法勝寺)。1949年生まれ。元週刊アサヒゴルフ副編集長。1977年に独立し、40年以上、二足のわらじを履いてテレビ、雑誌など多くのメディア活躍。「タイガー・ウッズ伝説の序章」など著書多数。
